恋はふたりが特別な関係になるためのエピソードなので、それはいろんなストーリーにもなっていくし、結果としていくつもの恋を渡り歩くことになるひとも出てくるということかと思いますとその3では書きました。
ひとりの人間がいくつかの恋を経験することが多いと思いますが、例えば、振られた場合でも相手のことが全く思い出にもならないものといつまでも尾を引くものがあったりします。
これはどうしてでしょう。決して恋の期間の長さだけによるものではないですね。
両思いというのは、お互いの中に相手を投影する状態、ある種、「自分=相手」であることを意識している状態ではないでしょうか。
となれば、相手をどれくらい「自分」に取り込んでいたかによって、相手がどれくらい「自分」に留まっているかが決まるということになります。
要するに、今の自分の中に相手が残っている度合いで決まるということです。
こんなことはないでしょうか。
ある恋を経験するまでは関心がなかったことが、相手の影響で好きになり、恋が終わった後もそのことへの関心が続き、それに関する何かの折に相手のことやそのひととのエピソードを思い出したりする。
その繰り返しが思い出をより強いものにして、終わったはずの恋が残ったままになっている。
中島みゆきさんの「時は流れて」という曲だと、やけを起こしていくつかの恋を渡り歩いたり、相手の恋のうわさを聞いて安心したりするようなことになったりもします。そして時は流れて相手には会えないまま…。
これを恋の悲しさと表現するのはあまりに陳腐でしょうか。
実はここまで恋ということばだけ使って愛は出てきませんでした。
自分の中に相手が残っているという状況でも、愛なら違う受け取り方、振舞い方になるのではないだろうか。
私はそう思っています。