最近の衝撃的な事件として、「
佐世保市の高1同級生殺害事件」がある。
事件発覚当初と違い、直近では、「人を殺してみたかった」などの本人の猟奇性が取りざたされている。
犯人の少女が極めて特殊であることで、理解できないことや信じられないことを封じ込めようとしたくなるほどの事件だが、このまま彼女とその家族の特殊性でこの事件がまとめられるような気がする。
殺したいと思った彼女は殺された女性の命をどう受け止めていたのか。
他人の好奇心で命を奪われることへの思慮は全くなかったのだろうか。あったらこんなことはしないか。
ゲームと違い、なくなったことをリセットすることはできない。
犯人の彼女は「痛み」を感じることがなくなってしまっていたのだろうか。
殺された彼女のために、報道しなくていいことはないかを考えて、マスコミは取材したほうがいいのではないかと思ったりする。
さっきまで知らなかったのだが、「STAP細胞の論文問題で中心にいた理研の笹井氏が自殺した」そうだ。
STAP細胞発見の発表について大きな役割を果たされた人物が自殺した意味は、残されたSTAP細胞や関係者にかなりの影響を与えるほどに大きいと思う。
私は自殺した事実しか知らないが、それは自責の念によるものなのか、先々生きてゆく意欲をなくしたのか、その両方なのか。
命と引き換えにしたものは何だったのだろうか。
命の重みについて、考えてみる。