『進化しすぎた脳』という本で取り上げられていること。
意識は、「表現の選択」(あることを表現する時、その内容を選択できること)、ワーキングメモリ(短期記憶、情報を短時間留めておけること)、「可塑性」(過去の記憶、経験を糧にすること)という3つを満たすことと著者の池谷さんは語っている。
そのように意識を定義すると、まさしく言葉は意識の典型といえよう。
あることを自分で言葉を選んで表す、過去の出来事を理解し、それを自分の経験値として利用した状況にあるというのが意識なのか。
この本でも話題に上がっているが、どこまで自分が意識的に行動しているかの判断が難しいように、意識を定義するのも難しい気がする。
言葉を使うとき反射的に選んでいることがある。
言葉にしても意識だけのものではないようだ。
この本は、大脳生理学に関するものなのだが、「好きな時にボタンを押す」という行動で動かそうという意識より先に脳が動く準備をしている状態にあるという実験結果を紹介している。
自由意志と思っていることも脳の動きでは潜在意識に突き動かされているということになるそうだ。
意識をミクロの世界で解き明かすと、自分は自分の中にある脳に操られているというあやうい印象のものになる。意識は脳の活動の副産物にすぎないということになるのか。
たしかに意識が脳と別の場所で生まれているというよりは合点がいく。
このミクロの解釈で日常の意識は想像できない。私は私の脳の機能で意識を構成して行動しているというより、体のなかにある意識が体の一部である脳を使って行動しているというほうが気持ちはしっくりいく。
むしろ意識を意識しないで暮らしていた方が楽なのではないか。
「「恋愛」ですら、おそらく意識のたまものではない。」と池谷さんは語っている。
これは私の恋愛に関する思いを思いっきりぶち壊すほどの衝撃があった。
自分の中にある自分で抑制できないもので自分や自分の恋愛ができているならば、私は自分はこうだと自分で意識したと開き直って暮らしていくしかないか。
「知らぬが仏」とはよくいったものだ。